宇治茶とは/宇治が発祥の覆下栽培/宇治茶の位置づけ/
宇治茶の歴史/茶の伝来/宇治茶の発祥/「覆下栽培」の誕生/茶の湯の大成/ 煎茶・玉露と文人の茶/輸出と近代化/国際ブランド化と観光資源化
目次
宇治茶とは(概要)
宇治茶は、京都府南部の宇治市やその近郊を中心に生産され、旨みと甘みが強く上品な香りが特徴で、主に玉露、碾茶(抹茶)、煎茶といった「高級茶の産地」として知られています。
また、明恵上人が栄西から贈られた茶の種を栂尾と宇治の地に伝えたとされ、古くから時の貴賓に献上されるなど、「歴史的産地」でもあります。
朝夕の寒暖差が大きい気候と伝統的な「覆下栽培」により、まろやかで深みのある味わいが生まれます。仕上げ加工技術も高く 「日本を代表する茶産地」の一つです。 千年以上の歴史を持ち、茶道文化と共に発展してきました。
宇治茶の基本的な定義
現代の商標制度に基づく広義の宇治茶は、「京都府・奈良県・滋賀県・三重県の4府県で生産された茶葉を、京都府内の業者が、宇治地域に由来する製法で仕上げ加工した緑茶」を指します。これは、宇治茶のブランド価値を維持しつつ、安定した供給を可能にするための制度的な枠組みです。 (公益社団法人 京都府茶業会議所)
つまり、宇治茶は、単に「宇治地域で栽培されたお茶」というだけではなく、宇治地域に伝わる伝統技術を受け継いだ製法で仕上げられた緑茶であることが重要な要素となっています。
宇治が発祥の被覆栽培(覆下栽培)
特に宇治茶は、「覆下(おおいした)栽培」と呼ばれる技法が特徴的です。
新芽の成長期に茶畑を覆い、直射日光を遮ることでアミノ酸(旨味成分)を多く含んだ茶葉を育てます。この技術は玉露や抹茶の製造に欠かせず、宇治茶の豊かな風味の源となっています。

日本茶の中での宇治茶の位置づけ
宇治茶は長い歴史の中で茶道文化と深く関わり、厳格な品質管理と審査制度によってその価値を守り続け、江戸時代には将軍へ献上されています。現代においても、全国茶品評会で高評価を受けるなど日本茶の中でも「最高級茶の代名詞」としての地位を確立しています。
宇治茶の歴史
奈良~平安時代…茶の伝来
日本におけるお茶の歴史について、奈良以前の日本での茶の利用について検証するのは難しいとされています。
確かな記録として残っている最も古い記述は、平安初期の815年に中国留学僧の栄忠が嵯峨天皇に茶を差し上げたという『日本後記』のものです。 唐から帰国した留学僧(最澄とも空海とも)が茶の種を持ち帰ったとする後世の伝承がありますが、この時代の茶文化は限定的で、記録に残されているのは貴族や僧侶の間でのみ嗜まれたものでした。
鎌倉~室町時代…宇治茶の発祥 禅と新しい喫茶文化が伝来
日本に本格的な喫茶文化が根付いたのは、鎌倉時代に入ってからのことです。 1191年、臨済宗の開祖栄西が宋から茶の種子とともに喫茶の習慣を持ち帰り、1211年に日本最古の茶書『喫茶養生記』を著して茶の効能を説きました。 この時期、抹茶という新しい茶の製法と飲み方は宮廷での儀礼から主に禅宗の僧侶たちによって嗜まれ、座禅や修行の一環として用いられるようになりました。 宇治茶栽培の始まりは、13世紀初めの鎌倉時代といわれています。
1214年(建保2年)に、栄西から贈られた茶の種を明恵上人が京都の栂尾(とがのお)高山寺に、続いて宇治にも伝えたとされる後世の伝承(記録としての確認は南北朝時代)があり、その歴史的由緒によっても宇治が特別視されるようになります。
栂尾から宇治への茶産地移行
14世紀半ばには喫茶の習慣が広がり、「闘茶(とうちゃ)」と呼ばれる茶の競技が貴族や武士の間で盛んに行われました。 これは、異なる産地の茶を飲み比べ、その産地や品質を当てる遊戯で、当時の上流階級にとって茶の知識や鑑識眼が求められる知的な娯楽でもありました。 この時代、京都・栂尾産の茶が最上級とされ、「本茶(ほんちゃ)」の称号を与えられて将軍や貴族に珍重されていました。一方、宇治を含む他の地域で生産された茶は「非茶(ひちゃ)」と呼ばれ、格付けの上では劣るものと見なされていました。
しかし、宇治地方が次第に茶の名産地として発展する契機となったのは、より温暖で肥沃な土地と安定した降水量を持ち、茶の栽培に適していたためです。
足利家による宇治茶の奨励と「覆下栽培」の誕生
室町幕府三代将軍足利義満は、茶を文化として確立するために宇治の茶生産を奨励しました。後に「宇治七茗園」(「奥の山園」のみ現存)と呼ばれる特定の茶園が設けられ、将軍家の庇護を受けて宇治茶のブランド化が進んだのです。
16世紀後半になると、宇治では「覆下栽培」が発明され、また加工技術の向上によって、将軍家にも献上される宇治茶は、次第に栂尾に代わって「高級茶の産地」としての地位を確立していきました。
また京都を中心とした有力寺院内においても、清浄な精神の象徴として茶は広く普及し、日本の伝統的な美意識に禅の思想性を加えた「茶の湯」が生まれます。 八代将軍足利義政は、東山文化の中心として「茶の湯」を洗練させ、この時代に、宇治の茶生産を専門に担う「茶師」が誕生しています。
安土桃山時代 茶の湯の大成 庶民の茶も広がる

千利休が茶の湯を大成し、大阪堺の豪商たちによって愛好され、また戦国武将たちの権力とも結びつき日本の政治と深く関わっていくことになります。 一方で、畿内の農村にも茶が栽培され、狂言などの芸能にも庶民の茶が散見されるようになり、庶民の日常にもお茶が広がっていきました。
江戸時代~明治

「将軍献上茶」としての宇治茶 煎茶の発展と玉露の生産、文人の茶
3代将軍徳川家光の時代に、将軍家に献上されるお茶を運ぶ「御茶壺道中(おちゃつぼどうちゅう)」の制度が始まり、宇治の茶師たち(上林家などの茶問屋)は宇治茶の品質を厳しく管理しました。
1738年に山城の国・宇治田原湯屋谷の永谷宗円が、蒸した茶の新芽を焙炉の上で揉み乾燥させる、画期的な「青製煎茶製法」(または「宇治茶製法」)と呼ばれる蒸し製煎茶のつくり方を完成させ、現在も日本茶製法の主流となっています。 宇治茶は「抹茶」だけでなく「煎茶」の分野でも宇治の製茶職人が各地で技術指導を行うなど先駆的な役割を果たし、全国各地の茶産地の発展に大きく貢献してきました。
日本における煎茶道の開祖は、江戸初期に禅宗の一つ・黄檗宗の萬福寺を宇治の地に開いた明出身の僧・隠元隆琦とされています。
形式にとらわれずに煎茶と清談を楽しむ「煎茶趣味」が文人の間で広まり、売茶翁をはじめとする煎茶愛好者たちの中で煎茶道の茶席が創造されていきます。
宇治では新たな需要の掘り起こしのため抹茶以外の高級茶の開発が進み、幕末期には覆い下栽培の茶葉を宇治製法で仕上げる「玉露(ぎょくろ)」が最高級品として生産されるようになります。
明治時代 海外への輸出と製茶技術の近代化 教育としての茶道の再評価

1853年の黒船来航以降になると、茶は重要な輸出品となっていきます。 京都山城地域では、和束町に加え南山城村においても茶畑が開墾され、地形を生かした「山なり開墾」と呼ばれる優れた茶園と茶畑景観が形成されました。
製茶の機械化は宇治においても見られましたが、茶葉の摘採については、手摘みの時代が続いていました。江戸以前から宇治の茶園には多くの出稼ぎ女性が新茶摘みのピンチヒッターとして訪れていましたが、次第に茶刈り鋏が導入されるようになり、茶畑の景観も変化していきました。 (丸久小山園の最高級の抹茶は、現在もお茶摘みさんによる手摘みを行っています。)

江戸時代までは、宇治茶は「抹茶」としての利用が中心でしたが、明治時代に入ると抹茶、煎茶、玉露それぞれの特性を活かした市場の開拓が進められました。
このように、明治時代は宇治茶が多様化し、それぞれの製法が洗練されていく時代となりました。 しかし、20世紀初頭に入ると、異国の紅茶が世界市場を席巻し、日本茶の輸出は次第に縮小していきます。それでも、宇治茶は日本国内市場での高級茶としての地位を確立し続けました。
現在 宇治茶の観光資源化 世界に認められた高品質
農業従事者の高齢化、ペットボトル飲料の普及により、急須で淹れるお茶の消費量減、他国産の緑茶が台頭し輸出市場での競争が激化したことにより、宇治茶の生産量は年々減少傾向にありますが、宇治市や和束町では、茶摘み体験や工場見学などを試み、また宇治茶産地の茶農家は、国内外の品評会やコンテストにおいて特に碾茶(抹茶の原料)や玉露で高い評価を受け続けています。
世界的な健康志向の高まりとともに、抹茶は、抗酸化作用の高いカテキンやリラックス効果のあるテアニンを豊富に含むことから、海外では健康や美容にも役立つ「スーパーフード」として人気が再加熱しています。

宇治茶は、「長い歴史と伝統」と「品質の指標」、そして茶道を始めとした「日本文化との深い関係性」のそれぞれの要素を持ち合わせた日本茶ブランドとして認識されています。
嗜好品の枠を超え、日本の伝統文化や精神性を体現する存在として、今後も伝統技術を守りつつ、時代の変化に適応しながら進化を続け、新たな展開を模索することで、茶を通じた国内外の人々の交流を世界に発信しています。